竹中半兵衛重治公(一の谷兜)に会いに…

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 竹中半兵衛重治公像(一の谷兜) 垂井駅前

竹中半兵衛重治公像

  竹中半兵衛重治(1544‐1579)

秀吉の軍師で、黒田官兵衛とともに「ニ(両)兵衛」と称される。妻の父・安藤守就らとともにわずか16名で難攻不落の稲葉山城を乗っ取り、数か月後に主君斎藤竜興に返還。その後、秀吉に請われて信長に仕え、秀吉の参謀となり、数々の戦功を立てる。三木城攻めの最中、36歳の若さで陣中にて病死。
兜は「銀箔押一の谷形兜」で、遺品として福島正則の手に渡り、朝鮮の役後、仲直りのしるしとして黒田長政の手に渡る。虎御前の太刀は山内一豊に、采配は黒田長政に、金の切り裂き馬印は秀吉の御旗になる。

「智謀神のごとし」

  竹中半兵衛 略年表

1544年(1歳) 美濃国の竹中遠江守重元の子として誕生
1564年(21歳) わずか16名で稲葉山城を乗っ取る
1567年(24歳) 織田信長に仕え、羽柴秀吉の与力となる
1570年(27歳) 金ヶ崎の退き口や姉川の戦いに参戦
1573年(30歳) 小谷城の戦いに参戦
1575年(32歳) 長篠の戦いに参戦
1579年(39歳) 三木城兵糧攻めを提案するも、攻城戦の最中に労咳(ろうがい)で病死 
         ※労咳=結核

竹中半兵衛重治公像と垂井駅

↓竹中半兵衛重治公像(竹中氏陣屋跡櫓門)はこちら

観光情報

所在地:〒503‐2121 岐阜県不破郡垂井町1812‐10 JR垂井駅北口ロータリー

☝竹中氏陣屋跡櫓門前とは異なる一の谷兜をかぶった竹名半兵衛重治公像がある。

伯耆守

先祖(馬印渋め)は、豊臣一門衆として秀吉公を黎明期より支える。
戦国期当時の城跡に館を構え、代々その地を守り、近代に至る。
先祖が、秀吉公と共に駆け抜けた戦国の世に思いを馳せ、武将に会い、城を攻め、合戦に参陣する。

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戦国放浪記ー夢のまた夢ー

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