赤塚の戦いに参戦…

歴史
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 赤塚の戦い

織田信秀の死後、1552年鳴海城の城主・山口教継(のりつぐ)とその子・教吉(のりよし)が、今川方に寝返る。山口教吉が守る鳴海城に向け、信長は軍勢800で出陣し、中根村(名古屋市瑞穂区)、小鳴海(名古屋市緑区)を抜け、三王山に陣取る。

信長が陣取ったのを確認した、山口教吉は軍勢1500で赤塚に向かう。信長は、三王山からこの状況を見て、ただちに赤塚へ軍勢を出撃させた。

双方が約9~11メートルと迫った時に、互いが矢を放ち開戦。両軍は、約7~9メートルを隔てて向かい合った状況で、戦いは数時間続いた。敵味方知り合い同士であったので、最後は馬や生け捕りにした兵を交換して戦いは終わった。信長方で討ち死にした者は30名に及び、信長はその日のうちに帰陣した。結果は引き分けといえる。

赤塚の戦い

  鳴海城跡公園

山口氏の鳴海城の一部は、現在鳴海城跡公園として、住民の憩いの場となっている。鳴海城からは、北にある三王山の信長の動きがよく見えたことであろう。山口教吉は、右手に見える成海神社の東側の街道を赤塚に出陣する。
三王山と鳴海城を結ぶ直線上、成海神社の西側には当時集落があったと考えられ、信長は後にそこの古屋敷を丹下砦として、今川氏の抑えとした。集落の西側は当時は海であった。 

鳴海城跡公園
鳴海城跡公園
鳴海城跡公園から三王山を望む
丹下砦跡

  天神社(鳴海城跡)

当時の鳴海城は、鳴海城跡公園から道路を挟んで、東にある天神社まで東西に広がる平城であったと考えられる。鳴海城は根古屋城と呼ばれていたが、鳴海城が築城される前には成海神社があり、築城(1394~1428年頃)に際し、成海神社は現在の場所に移された。よって、赤塚の戦いの時には、すでに成海神社は、現在の場所にあった。
後に、山口親子は今川義元に切腹に追い込まれ、鳴海城には今川氏譜代の岡部元信が城主となる。

鳴海城跡 天神社
鳴海城跡石碑
鳴海城跡石碑
天神社(鳴海城跡)
天神社(鳴海城跡)

鳴海城は天正末期に廃城となるが、すぐ南を東海道が通り、東海道五十三次の四十番目の鳴海宿があった。天神社の近くには、鳴海宿の高札場が再現されている。

東海道鳴海宿高札場

 成海神社

平安時代初期の『延喜式』に載る格式高い神社。688年創建といわれ、日本武尊を祭神とする。

成海神社
成海神社

観光情報

 鳴海城跡(鳴海城跡公園、天神社)

住所:〒458-0801 愛知県名古屋市鳴海町
交通:名鉄名古屋本線 鳴海駅より北へ徒歩で約5分。

 成海神社

住所:〒458-0801 愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85
TEL:052-891-2830
交通:名鉄名古屋本線 鳴海駅より北へ徒歩で約10分。

伯耆守

先祖(馬印渋め)は、豊臣一門衆として秀吉公を黎明期より支える。
戦国期当時の城跡に館を構え、代々その地を守り、近代に至る。
先祖が、秀吉公と共に駆け抜けた戦国の世に思いを馳せ、武将に会い、城を攻め、合戦に参陣する。

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戦国放浪記ー夢のまた夢ー

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